弁護士会人権救済申し立て応援投稿

               もはや玉東町丸刈り校則判決では丸刈り校則を正当化できない!

<はじめに>

 かつて、丸刈り校則のあった神戸市や愛知県岡崎市では、市議会で「丸刈り校則は、人権侵害にあたるのではないか?」と質問される場面がありました。そんな時、教育委員会側が決まって持ち出すのが玉東町丸刈り校則裁判の結果(熊本地裁昭和601113日判決)であり、彼らは、これを引き合いに出して「丸刈り校則は、人権侵害ではない」と開き直りました(森山昭雄編著『丸刈り校則たった一人の反乱』104頁 風媒社1989年)(神戸新聞 平成2年7月30日付け)。 

 その後、小野市丸刈り校則裁判が提起されましたが、最高裁は、丸刈り校則そのものに法的効果がないことを理由にその是非について判断せず、原告の訴えを門前払いにしました。そのため、いまだにこの玉東町丸刈り裁判の判決が、裁判所が丸刈り校則について唯一正面から判断したものとして、「丸刈り校則は人権侵害ではない」と主張している人々の強い根拠になっています。

 しかし、この判決が出てから、もう18年がたちました。世の中も法律も随分変わりました。最近、東京地裁で「兼松賃金男女差別訴訟」の判決がありましたが(平成1511月5日判決)、この判決理由の中に「コース別賃金処遇については、性差別を禁止した憲法の趣旨に反するが、原告の入社当時では公序良俗に反するとまでいえない。」という一文がありました。この例からも、ある時ある事実に対して、裁判所がそれを人権侵害であると認めなかったとしても、それは永遠のものではないのです。

 私は、現代に至って、この判決で取り上げられた「丸刈り校則の適法性」の根拠は、もはやことごとく崩れ去っているように思います。そこで、今回の意見投稿では、このことを具体的に示して、あけみさんの弁護士会人権救済申し立ての応援をしたいと思います。

 

1 判決の内容> …判決についてすでにご存知の方は、読みとばしていただいても結構です。 

 1 玉東町丸刈り校則裁判

  ・ 熊本地裁 昭和601113日判決 昭和58年(行ウ)第3号(棄却)、第4号(却下)

  ・ 裁判長裁判官 土屋義雄、裁判官 廣永伸行、井口修

  ・ 主な収録文献:判例地方自治3442頁、判例タイムズ57033頁、判例時報117448頁、行政事件裁判例集3611.121875

 

 2 概要
 (請求1)…行政訴訟
   (1)丸刈り校則の無効確認の請求

   (2)無効確認周知の請求、不利益処分禁止の請求

    裁判所の判断原告は卒業したので法律上の利益なし。(裁判が長引いたから卒業になった。「訴訟指揮をとった裁判所の責任はどうなるのか!」という非難あり。)

 (請求2)…損害賠償請求 …国家賠償法に基づいて、次項「3」を争点として、丸刈り校則が違法かどうか判断された。

               参考:国家賠償法第1条第1項

                国又は公共団体の公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって、違法に他人に損害を与えたときは、国又は地方公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

 

 3 争点 

   (1)憲法第14条(法の下の平等)違反かどうか?

      ア 住所地による不平等

      校則は、各中学校において独自に判断されて決められるので合理的な差別であって、不平等ではない。

      性別による不平等

      髪形について男性と女性の習慣が異なるので合理的な差別であって、不平等ではない。

   (2) 憲法第31条(法定手続の保障)違反かどうか?

      校則に違反しても強制的に髪形を切除するわけではないから、法律によらず自由を奪うという主張は前提を欠く。

   (3)憲法第21条(表現の自由)違反ではないか?

      髪形が思想等の表現であることは特殊な場合を除いて見ることはできない。特に中学生の場合、まれである。

   (4)校長の裁量(法律上認められた校長の判断で物事を処理できる範囲)の逸脱(はみだし)ではないか?

      次により違法ではない。

      ア 中学校長は、教育の実現のため、生徒を規律する包括的権能を有する。

      イ 教育は人格の完成をめざす(教育基本法)ものであるから、アには、生徒のしつけに関するものも含まれる。

      ウ ただし、アは、無制限ではなく、社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認される。

      エ しかし、アの合理的範囲(=ウ)は、教育の措置に関するものだけに、最終的には、中学校長の専門的・技術的な判断に

       委ねられる。

      オ エより、校則が教育を目的として定められた場合には、その内容が著しく不合理でない限り、違法とはならない。

      カ 丸刈り校則は、非行防止その他の教育目的で制定されたことが認められる。

      キ しかし、丸刈り校則に、その教育目的どおりの効果があるとは、認められない。

      ク だから、丸刈り校則の合理性には疑いを差し挟む余地を否定できない。

      ケ しかし、丸刈りは、郡部において広く行われ、特異な髪形でない。

      コ 校則が無い時から慣行として行われていた。

      サ 校則に従わない場合でも、強制的に髪を切ったり、内申書に記載したりという、学校外部に効果が及ぶ不利益処分はしない運用をしている。

      シ 身体的欠陥がある者には、長髪を許可している。

      ス 職員会議で丸刈り校則維持が確認されている。

      セ 原告に対して直接の指導すら行われていない。

      ソ カ(→丸刈り校則が教育目的で制定されたこと)及びケからセの、丸刈り校則の社会的許容性、校則の運用に照らし、丸刈り校則が著しく不合理とはいえない。

      タ 校則が違法でないから、校則を制定することも、これに従うよう指導することも違法ではない。

 

<2 判決の影響>

 1 学校現場・教育委員会の反応
  丸刈り校則に合憲判決が出たと受け止めたところがほんどでした。

そして、この判決を根拠に、丸刈り校則を維持しようとするところも現れました。(冒頭<はじめに>に掲載した神戸市や岡崎市の例等。)

 

 2 文部省サイドの反応

  私の把握する限り、文部省(現:文部科学省)側は、判決翌日の新聞にコメントを出しませんでした。しばらくして、文部省大臣官房審議官だった菱村幸彦氏が「内外教育第3700号」(昭和601213日発行)に出したのが、最初のコメントだと思います。

  私なりに、文部省側の反応を読み解きますと、この判決が学校長の生徒指導における幅広い裁量を承認したことについては、高く評価しているようです。しかし、丸刈り校則そのものについては、「判決を機に見直す方向が出てきたことを良いこと」だと評価しています。

  この傾向は、菱村幸彦氏の他の著書においても踏襲されており、「『教育の眼・法律の眼』129頁 葛ウ育開発研究所 平成4年5月」、「『続やさしい 教育法規の読み方』85頁 葛ウ育開発研究所 平成78月」などにおいては、かなりはっきりと丸刈り校則は見直すべき時期に来ていると主張されています。(ただし、文部省側で、最初に長髪禁止校則が合法だと、著書をもって言ったのも菱村幸彦氏であり、この点では、自らが作り出すこと深くに関与した「丸刈り校則という人権侵害」の収束を図ろうとしたにすぎないと思います。「『生徒指導の法律常識』172頁 第一法規 昭和5245日」)

  その後、平成2年7月11日付けの朝日新聞には、「丸刈りについては、いやがる子を無視していいのかという気持ちを持っていた。」という、辻村哲夫文部省中学校課長のコメントが掲載されています。

  また、文部省は、その関係団体が著した文献の中で、髪型の規制は法的に可能だとしつつも、「ただし、学校は教育の場であり、実際の校則等の制定や運用に際しては、十分な教育的配慮が必要とされることは勿論であり、結果として、生徒の表現の自由を制限するような場合も、学校教育の目的達成のために必要最低限のないようにとどめるべきであることはいうまでもない。」(文部省教務研究会編 『詳解生徒指導必携』352頁 ぎょうせい 平成3年9月)とし、教育者が実際の学校運営に用いるべき人権尊重の基準が、裁判所が適 法と認める基準よりも高い位置にあるべきことを示しました。

  蛇足ですが、文部大臣が非公式に見解を発表したものとしては、雑誌『婦人公論』の編集部が、非自民党内閣の文部大臣だった赤松良子氏にインタビューした結果をまとめた「文部大臣3ヵ月目の自己採点」(『婦人公論』199312月号221頁 中央公論社)という記事があります。

  この中で、赤松文部大臣は、「学校が校則を持つのは自由ですし、文部省がそれに口を挟むのはお間違いです。しかし、丸刈りに限らず、箸の上げ下ろしまで口を出すような校則はいかがなものか。自由な精神を育てる、個性尊重が日本の教育行政の大方針です。強制的な校則はそういう意味で感心なことといえません。」(前掲『婦人公論』 223頁 中央公論)と述べられています。

  (注)

  教育行政に対して、学校が校則を持つ自由を有しているのは、「教育の自由」を現場に保障していることを意味しています。

  しかし、教育の自由が誰のために存在するかといえば、児童生徒のためにほかなりません(旭川学力テスト事件最高裁判決 昭和51521日 刑集30巻5号615頁)。このことを踏まえれば、文部大臣のこの発言は、「丸刈り校則が本来の教育の自由の趣旨から外れたものであって感心しない」と、丸刈り校則を否定しているのです。

  実際、後述「<5>−6−オ」において述べるように、文部大臣の丸刈り校則に否定的な発言を受けて、多くの学校が丸刈り校則を廃止しました。

  ただ、個人的には、我が国の男女共同参画社会の形成に多大な貢献をされた赤松良子氏が、文部大臣就任当時、丸刈り校則に内在する男性差別を見抜けなかったことが残念です。彼女にそこに着目するだけの能力があれば、明快に否定してくれたでしょう。それとも、彼女は、所詮、女性側の権利ばかり主張する人物だったのでしょうか。いつか、伺ってみたいと思っています。

 

 3 法務省サイドの反応
  この判決以前は、丸刈り校則が人権侵害であるかどうか対応が分かれていました。

  昭和33年4月2日には、茨城県立上郷高校に対して「長髪禁止を校則に「生徒心得」として掲げること自体に問題がある」と、水戸法務局長が勧告をしています。

  しかし、この玉東事件では、訴訟の提起よりも前に、原告生徒が熊本県の法務局に相談したにもかかわらず、門前払いにしました。

  そういった経過もあったからでしょうか、判決後の法務省は、その関係団体が著した文献において「丸刈り校則は人権侵害とはいえない」という見解を明らかにして、熊本での対応について開き直りました(法務省人権擁護局内人権実務研究会監修『人権相談の手引』30頁 平成5年5月 日本加除出版)。

  ただし、別の文献では「本人の自由な意思を抑圧して、髪を切らせるように仕向けるとは、人権侵害にあたる」として、判決に従って校則の適法性を認めつつも、その運用次第で人権侵害事件となることを警告し、救済の可能性は残しました(人権権擁護協力会『人権侵 犯事件例集』20頁 平成4年 日本加除出版)。

  そして、実際に、平成5年9月13日には、教師が生徒の髪の毛をバリカンで刈った問題で、大阪法務局は、大阪市教育委員会を事情聴取しました。ちなみに、この件については、翌日付けの毎日新聞の朝刊の記事に「(頭髪を意思に反して切るように仕向けることも)

  場合によっては、人権侵犯にあたる。」という、大阪法務局人権擁護部第二課の山田一雄課長のコメントが掲載されています。

  また、高校の例ですが、平成3年3月20日には、鹿児島地方法務局長が、強制的に生徒の髪を刈ることは体罰にあたる(=学校教育法第11条違反)という説示をしました。

 

 4 住民運動の反応

  通常、裁判所の判決というものは、ある種の法的争いに決着をつける効果を持つものです。この判決は、一時的に「丸刈り校則はおかしい!」という保護者や生徒の訴えを黙らせました。しかし、2、3年もたたないうちに、判決とは裏腹に、全国各地に丸刈り校則反対を唱える住民運動が生まれ始めました。これは、この判決が、丸刈り校則の合理性の根拠をことごとく否定したからでした。(<1>−3−(4)−キ〜ケ)

 

 5 法学者の反応
  法学者の多くは、この判決を非難しました。

  通常、裁判では、双方に争いのある部分にしか、判決はくだされません。法学者の間では、この裁判では、丸刈り校則が憲法第13条(幸福追求権)違反であるかどうかについて争われていないことを指摘し、もし、この点についても争われていれば、丸刈り校則が人権侵害だと認められたはずだという意見が大勢を占めています。

  主な論文は、次のとおりです。(順不同・敬称略、判決について批判的でないものも含む)

  ・中村睦男「熊本男子中学生丸刈り校則事件」判例評論329号40頁(判例時報1190号194頁)

  ・戸波江二「丸刈り校則と自己決定の自由」法律時報58巻4号92頁

  ・阿部泰隆「男子中学生丸刈り校則」法学教室65号11頁

  ・奥平康弘「熊本地裁『丸刈り』判決を読んで」法学セミナー374号8頁

  ・竹内重年「丸刈り裁判の問題点」季刊教育法62号132頁

  ・市川須美子「長髪禁止規定と子どもの人権」季刊教育法62号135頁

  ・江橋崇「男子生徒長髪禁止校則と公立中学校校長の専門的裁量判断権」法学セミナー379号116頁

  ・小林武「校則による中学生の生活規制と司法審査」南山法学10巻1号241頁

  ・桑山昌己「公立中学校の坊主刈り規制における諸問題」経済と法24号145頁

  ・浅利祐一「公立中学校における髪形の規制」憲法判例百選T(第三版)46頁

  ・小林節「公立学校における髪型の規制」憲法判例百選T(第二版)38頁

  ・坂本秀夫『校則裁判』26頁 三一書房 1993

 

 6 弁護士会の対応 

  この判決に対する評価は、上記と同様、「丸刈り校則は、憲法第13条(幸福追求権)違反であり、もし、この点についても争われていれば、丸刈り校則が人権侵害と認められたはずだ。」という点から、「丸刈り校則は、違法・違憲である」という立場を表明しています。

 (日本弁護士連合会『子どもの人権救済の手引』96頁 1987年)

  また、多くの県の弁護士会が、丸刈り校則が人権侵害であることを認めて、勧告又は要望を出しています。この点については、当ホームページの「みなさんから寄せられた意見」2003年6月19日付けの私(=匿名K)の意見投稿をご覧ください。

 

<3 判決のとらえ方>
 以上を見ると、この判決を、学校現場・教育委員会が、「丸刈り校則にお墨付きを与えたもの」としてとらえている  のに対し、文部省(現在の文部科学省)側、法務省側、住民運動は、「丸刈り校則を見直す機会を与えたもの」として とらえていることがわかります。

 いったい、どちらが正しいのでしょうか。

 私は、後者が正しいと思います。この判決は、決して丸刈り校則を肯定的にとらえているわけではありません。そう考える根拠は、判決に次の3つの特徴があるからです。

 

 1 校則は憲法の制約を受けることを示した

  第1の特徴は、この判決が、憲法を直接適用した点です。

  判決では、まず最初に校則が憲法に違反しないかどうかを判断しています。そして、違憲とならないことを確認した上で、学校長において、丸刈り校則を定めることが可能かどうかを判断しています。

  これは、とても重要なことです。なぜなら、現在、文部科学省は、学校という部分社会の校則は「教育目的のために社会通念に照らして合理的とみられる範囲内に限り、憲法に定められた基本的人権をも制約できる」としており、この見解にたてば、たとえ、校則が憲法の定める基本的人権を侵害したとしても、教育のためなら違法にならないというのです。

  ところが、この判決では、たとえ教育の場であろうと、憲法に反することは許されないという立場をとり、文部省の見解とは異なる立場を示しました。

 

 2 司法権力が丸刈りを違法とする基準を文部省の校則が許されるとする基準より高く置いた

  第2の特徴は、この判決では、司法において「校則を違法とする基準」を、それまでから文部省が学校長に認めていた基準よりも緩和していることです。

  当時も現在も、文部科学省における基準は、「教育目的のために社会通念に照らして合理的とみられる範囲内」です。(前掲『詳解生徒指導必携』132頁)。この基準は、そもそも、昭和女子大事件最高裁判決(昭和49年7月19日)において示された基準です。しかし、この玉東中学校丸刈り校則判決では、丸刈り校則の教育的効果を事実認定においてことごとく否定し、その合理性に疑問があると述べたにもかかわらず、教育者の専門的裁量を尊重して、裁判所が救済するのは「著しく不合理である場合」に限るとしてしまいました。

  こうして、あえて最高裁や文部科学省の「合法ライン」を逸脱して、裁判官が独自の基準を作り上げました。このことは、当時も現在も、まるで学校側(注:被告は玉東町)を勝訴させるためにした作為のようにも受け止められ、裁判の公平性が疑われる部分として、多方面から非難されているところです。(前掲中村睦男先生の論文「熊本男子中学生丸刈り校則事件」、前掲森山昭雄『丸刈り校則たった一人の反乱』146頁)においても指摘されているところです。)

  しかし、なぜ、裁判所はこのような態度に出たのか、もう一歩踏み込んで考えてみる必要があると思います。

  当時は、日本の3分の1の中学校に丸刈り校則がありました。もし、原告が勝訴すれば、日本の教育が3人の裁判官の判断によって、ひっくり返る事態になりました。それだけではすみません。これに続いて「丸刈り校則の被害を受けた」と訴える人々が、全国いたるところで同様の訴訟を提起し、日本の教育は、まるで大革命が起こったような事態に陥ったと思われます。

  かつて、最高裁判所長官を勤めた田中耕太郎は、その著書の中で「法と裁判とは、その範囲において同一ではないと思う。」とし、裁判によって救済されない違法状態があること、それらは、道徳や政治的責任感において順守されるべきであることを説いています。

 (『教育基本法の理論』711頁 有斐閣 昭和36年2月)。実際、あまりにも社会的影響が大きいと予想される時、裁判所は、その解決を立法機関又は行政機関に求める傾向があります。まさに、この事件は、それにあてはまったのではないでしょうか。

  それゆえ、私は、裁判官たちは、丸刈り校則を違法とまでは判断しないものの、その合理性に疑問があることを外部から指摘し、教育者自身が、そのおかしさに気づいて、自主的に丸刈り校則を撤廃するように促したものと考えます。

  ちなみに、京都府立医大懲戒処分事件では、懲戒処分が、学校当局の裁量範囲(→学校当局が当局自身の判断で処理可能な範囲)の限界を超えるどうかについて、「@決定が事実上の根拠に基づかない場合、A社会観念上、著しく妥当性を欠く場合」という2つの基準を示しました(最高裁昭和29年7月30日付け判決)。これによれば、丸刈り校則は、Aに当てはまらなくても、@には、当てはまっていましたから、本来、「著しく不合理ではない」と判断づけるのにも無理があったのです。

  なお、本件については、当ホームページ「みなさんからよせられた意見」の20031112日付けの私の意見投稿もご参照ください。

  (注:引き合いに出した田中耕太郎ですが、私は、まったく賛美するつもりはありません。現在、丸刈り校則合憲論の温床となっている「部分社会論」の源を唱えた人物でもあるからです。それに、教育基本法の起草に関わったという立場や元最高裁長官という立場、元参議院文教委員長であるという立場を巧み利用しながら、この著書がいかにも教育基本法の立法者意思を伝える解釈本であるかのような態度をとって「憲法による教育権の規整には一定の限度がある」(前掲書37頁)等とんでもないことを説いています。彼の著書は、教育基本法施行から10年以上経過した後に出版されたものです。教育基本法施行当時に出された他の文献と立場が大きく異なっているところからも、私は、政治的意図をもって著されたものだと思っています。)

   

 3 実際に学校現場において行われている丸刈り校則については違法になることを暗喩した

  第3特徴は、玉東中学校の丸刈り校則を適法だとしつつも、その適法とした根拠に、丸刈り校則に従わないからといって、強制的に髪を刈ったり、内申書に記載しないこと等不利益扱いしなかったことを掲げることで、実際に、当時全国のいたるところで行われていた不

  利益扱いが伴う丸刈り校則については、違法である可能性を警告し、その運用に歯止めをかけたところです。

  「ある法律の憲法判断に際して、その解釈としていくつかの可能性がある場合、その中の特定の解釈をとった場合は違憲とならないことを示して、その法令の実際の運用が、それに合致していれば、法令と事案の双方を合法・合憲とし、合致していなければ、事案は違法とするが、それでも法令そのものは合憲とする。」…という解釈を、憲法学では、合憲限定解釈といいます。これは、実質的には、法令は違憲であるけれど、あえて、その内容を狭いもの(限定されたもの)にしてしまうことで、法令そのものが違憲となることを防ぐ、裁判官による違憲判断回避の方法です。

  丸刈り校則についても、運用幅が限定的であったことを合法性の根拠にしたことは、これに類似する解釈がなされたと見るべきです。

  つまり、たまたま玉東中学校では丸刈り校則が適法とされたものの、それは、「丸刈り校則に従わないからといって、不利益扱いしないという環境に限定して認められた判断であって、逆に、この判決は、当時、全国の多くの丸刈り校則実施校に対して実施されていた「体罰、調査書(内申書)への不利益処分をちらつかせた指導、強制散髪…」といった運用については違法になることを教育者に警告したものとも言えます。

  

<4 現在、行われている丸刈り校則は、合法と認められるものか?>

 さて、<3>のように判決をとらえますと、この判決は、実際に全国各地で行われていた丸刈り校則を骨抜きにしてしまったことがわかります。判決に従えば、合法的な丸刈り校則とは、「生徒が拒否しようと思えば、それが可能な、強制、強要のない状態で行われるもので、しかも、(従来から言われてきたような)でたらめな教育上の効果を主張したりしないもの」だけということになるからです。丸刈り校則の根拠として、判決の中で認められたのは「しつけ」だけです。

 

<5 判決における丸刈り校則適法の根拠の現在> 

 では、いよいよ、これまでの資料と分析をもとに、判決における丸刈り校則適法の根拠が、現在においても通用するものなのか、検証してみたいと思います。基本的に、上記<1>−3に掲げた争点の項目番号と一致させて検討しました。

 

 1 <1>−3−(1)〜(3)共通 その1 憲法違反かどうか?

  ずばり、丸刈り校則が憲法違反かどうかというと、もし、これが生徒に強制力を持つものならば、現代では、憲法違反だといわざるをえないでしょう。

  判決後、先の「法学者の反応」において紹介したように、丸刈り校則が憲法第13条違反ではないか」という主張が主流を占めるようになりました。その結果、修徳学園高校パーマ退学事件東京地裁判決(平成3年3月21日)の判決理由において、特定の髪型を強制することは、憲法第13条違反だという趣旨が述べられるまでに至りました。

  個人と行政との関係とは違って、私人間(個人と学校法人)との関係は、一般的に憲法は直接適用されず、間接的にしか適用されません。人権侵害は、公序良俗に反する場合や不法行為等の場合にのみ救済されます。しかし、そのような関係においても、このような判断が出されたことは、たいへん重要な意味を持っています。文部省(現在の文部科学省)のいうように、学校が(私人間の関係に類似する)特殊な部分社会であっても、丸刈り校則については、憲法を直接適用して違法だと言うことができるからです。

  なお、この東京地裁判決を参考にして、愛媛県は、丸刈り校則を人権に関わる問題であると判断して、平成5年度末までにこれを全廃しました。

  玉東中学校判決では、校則は、憲法の枠内でのみ認められるという建前をとっていますので、以上の事実だけでも、丸刈り校則が憲法に反し違法だと言える状況に至ったと言えると考えます。

  (参考…修徳学園高校パーマ退学事件東京地裁判決(平成3年3月21日)の判決理由より)
   個人の髪型は、個人の自尊心あるいは美的意識と分かちがたく結びつき、特定の髪型を強制することは、

身体の一部に対する直接的な干渉となり、強制される者の自尊心を傷つけるおそれがあるから、髪型決定の自由が個人の人格価値に直結することは明らかであり、個人が頭髪について決定する権利は、個人が一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定できる権利の内容として憲法13条によって保障されていると解される。

 

 2 <1>−3−(1)〜(3)共通 その2 児童の権利条約と判決(総論)

  平成6年5月22日に、児童の権利条約が発効したことも、この判決が出された時からの大きな環境の変化です。

  条約というものは、憲法よりも劣位ですが、一般の法律よりも優位にあります。

  そのため、それまで保護の対象とされていた児童について、権利の主体性を認めた児童の権利条約は、平成時代初期においては、学校教育に画期的転換をもたらすものとして、たいへん期待されていました。

  ところが、平成3年、『学校経営 11月号』(第一法規)に、文部省は、「『児童の権利条約』について」という文部省学術国際局国際企画課課長補佐:岡本薫氏の論文を掲載し、「条約を批准した後においても、児童の権利を不当に侵害してきたといったことがない限り、学校運営や生徒指導についての従来の取り扱いが基本的に変わるものではない」という方針を出しました。さらに、この論文の後に、「学校経営編集部」によるQ&Aを掲載し、そこでは、条約批准後も、条約上の権利に対する「教育目的の合理的範囲内の制限は可能」だという見解を示しました。

  回答者が、文部省ではなく「学校経営編集部」であるところに、「おいしいとこ取り」の卑怯さがうかがえます。つまり、このような形で見解を示せば、国民や国際社会からの批判には「文部省の見解ではない」というに態度を取って逃げることができますし、一方、教育現場には、しっかりと「文部省のお言葉」として届くからです。実際、平成3年11月9日付け「日本教育新聞」においては、「文部省解説付きでQ&A」という見出しが付けられているところからも、教育現場では、文部省の見解と同一視されて受け止められたことが明らかです。

  そのうえ、平成6年5月20日、文部省は「『児童の権利条約』について」という通知を出して、児童の権利条約が発効しても、「法令等の改正は必要ないところでありますが、もとより、児童の人権に十分に配慮し、一人一人を大切にした教育が行われなければならないことは極めて重要なこと」という通知を出しました。

  こうして、教育現場では、「児童の権利条約批准後も、学校現場か変わる必要はない」という認識が形成されてしまいました。

  しかし、このような理屈づけは、丸刈り校則については、明らかに間違いです。以下にその理由を述べますと…。

  まず、1つめに、先に「<3>−1」において掲げたとおり、玉東中学校丸刈り校則裁判の判決では、憲法の規定を校則に直接適用しました。文部省が児童の権利条約を直接適用しない根拠は、憲法を校則に直接適用しない根拠と同じ「部分社会論」に基づく結論であり、これが否定される以上、児童の権利条約も、憲法と同様に直接適用されるということになるからです。そうなると、丸刈り校則は、明らかに児童の権利条約の複数の条項(私生活の自由等)に抵触します。

  2つめに、仮に文部省(現在の文部科学省)がいうように、児童の権利条約の各条文が、校則に直接に適用されることがないとしても、この条約第28条第2項には、「締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。」という条項があって、結局は、学校内においても、児童の権利条約の内容が実現されるように求められているからです。

  この条文を詳しく見ると、学校独自の規律の存在は認めているものの、それは児童の権利条約に適合したものでなければならないという、規律そのものに制限を課している条文であることがわかります。そのため、文部省も、法改正の必要はないと言っていますが、運用上の見直しの必要がないとは言っていません。実際に、児童権利条約第1回政府報告においては、「学校においては、…中略…校則が必要である。校則は、より適切なものとなるよう絶えず見直しを行うことについて、教育関係機関に通知したところである。」(『児童の権利に関する条約第1回報告』 32頁、同旨82頁 平成8年5月、『児童の権利に関する条約第2回報告』51頁 平成1311月)と記載していますし、「また、文部省では、児童生徒に教育を行うに当たり、児童生徒の私生活等に関与する場合には、児童の人権に十分配慮するよう教育関係機関に対し指導を行っている。」(前掲書38頁)と、文部省(文部科学省)自身も、児童の権利条約に沿って教育関係機関に校則の見直しを指導したことを認めています。

  なお、児童の権利条約第29条第2項には。「第28条は個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない」とあり、2つの条文の間をどのように解釈するかが気になるところですが、第29条2項には、「ただし、常に第1項に定める原則が遵守されること」という条件が付けられており、その第29条第1項には、児童の身体的な能力を可能な最大限度まで発達させること(→丸刈りの強制は身体機能の使用制限)、人権及び基本的自由を育成すること、児童の父母・児童の文化的同一性・価値観を育成すること(→丸刈りをしたことのない児童に丸刈りを強制するのは、文化的同一性・価値観の侵害)といった内容があります。よって、こと丸刈り校則に関しては、第29条第2項に保障された教育機関の自由の埒外であることが明らかです。

  国連においても、第29条第2項に定められた教育機関の自由が、児童の学校内での権利制限の正当化に用いられる危険性を意識し、平成13年1月25日に、国連児童の権利委員会が第29条について「一般的意見第1号」を採択し、解釈の基準を示しました。そして、その中に「学校内においても児童の人権が尊重されるべきである」という内容が盛り込まれました。

  

 (参考1)第1回政府報告に対する国連審査の最終見解においても、「委員会は、とくに家庭、学校およびその他の施設において子どものプライバシーへの権利を保障するために締約国がとった措置が不充分であることを懸念する。」と懸念を表明されています。

 (参考2) 児童の権利条約の各条項と丸刈り校則の問題点 

  第2条 差別の禁止    → 丸刈り校則は、性別による差別、髪型による差別(詳細は、後述)

  第3条 最善の利益の確保 → 効果の認められない丸刈り校則は、児童の最善の利益を図ったものではない。

                 たとえ、教育的効果があっても教育者の指導力不足を補う手段として用いられており不適当。

  第4条 締約国の実施義務 → 文部科学省は、丸刈り校則の採否は学校で判断することとして放置している。

  第5条 親の指導の尊重  → 子の頭髪について、個々の親の意見を尊重せず、特定の髪型を押し付ける。(第18条参照)

  6条 生命・生存・発達の確保  → 児童の発達を可能な最大限の範囲で確保する義務があるにもかかわらず、頭部を保護する

                     髪の機能を使わせない。

  第8条 アイデンティティーの保全 → これまで児童が続けてきた髪型について、不法に干渉し、アイデンティティーを侵害している。

  第12条 意見表明権    → 入学前に「校則」という形で意見聴取の機会も無いままに丸刈りを押し付ける。

  第13条 表現の自由    → 唯一、丸刈りしか髪型を認めないのは、表現の自由に反する。(詳細は、後述)

  第14条 プライバシー・通信・名誉の保護 → 髪型は人格に直結するプライバシーであり、これに対する自由を奪われることは、屈辱でもあり、名誉の侵害である。

  第18条 親の養育責任   → 髪型の一律規制は、児童の発達に対する親の第一義的な責任を侵害する。(第3条参照)

  23条 障害児の権利   → 丸刈り校則の実施は、耳の形に障害を持つ児童や部分脱毛症の児童が集団の中で浮き上がってしまうというスクリーニング効果が起きる。また、性同一性障害を持つ児童には耐え難い苦痛を与える。

                 本来、学校は、丸刈り校則を実施した場合、このようなマイノリティーの立場にある児童の学習権が侵害されないように他の児童に対して指導を行う必要があるが、ほとんどの場合、放置されている。 

  第24条 健康への権利   → 丸刈り校則を放置することは、第2項にいう「児童の健康を害するような伝統的慣行を廃止する義務」に反している。以前に比べて紫外線の害が指摘されるようになった現在、丸刈りは、個人の責任のもと、その自由な選択の結果としてのみ行われるべきである。

  第27条 生活水準への権利 → 丸刈りの強制は、児童の生活水準(身体的・精神的・社会的生活水準)を規制するものである。

  第28条 教育への権利   → 第2項に基づくと、学校の規律は、児童の権利条約の各条項に反してはならないことになる。(先述の解説参照)

  第29条 教育の目的    → (先述の解説参照)

  第31条 文化的生活への参加→ 丸刈り校則は、児童が髪形について文化的生活に参加する権利を著しく侵害している。

  第34条 性的虐待等の禁止 → 異性の前で恥かしい髪型を強制することは、セクシャルハラスメントである。(後述参照)

  37条 死刑・拷問の禁止 → 丸刈りの強制は、品位を傷つける取り扱いである。

  

 3 <1>−3−(1) 憲法第14条(法の下の平等)違反かどうか?

  ア 住所地による不平等

   この分野では、判決後、その判断の根拠となった法解釈の基準に変化は見られません。しかし、当時に比べ、行政側に新たな動きがみられるようになりました。

   それは、平成9年1月27日付けで、文部省が出した「通学区域制度の弾力的運用について」という通知によるものです。市町村教育委員会内において、中学校が2校以上ある場合、「児童生徒等の具体的な事情に即して相当と認めるときは、保護者の申立により、これを認めることができること。」ととしたのです。

   このことにより、同一市町村内に、丸刈り校則を定める学校とそうでない学校がある場合、丸刈り校則の無い学校の選択を申し立てることも法的には可能となりました。そして、この申し立てが認められなかった場合、これは行政処分となるので、行政訴訟を提起することも可能となりました。(参考:平成5219日付け佐賀地裁判決 判例地方自治116号収録)

 

  イ 性別による不平等

   この分野では、判決後、その判断の根拠となった法解釈の基準に大きな変化が生じました。

   1つは、男女共同参画社会基本法の制定により、男女の平等に対する概念が進歩したこと。もう1つは、セクシャルハラスメントという人権問題が社会的に認知されるようになったことです。

   まず、1つめについて。判決では、男女に異なる習慣があることをもって、原告の男女差別の主張を退けました。しかし、男女差別かどうかは、もっと多方面から見るべきであり、たとえ男女において髪型に異なる習慣があっても、それぞれの性において色々な髪型があり、男子にのみ唯一丸刈りしか選択の幅を与えないのは、それだけでも男女差別だという意見が、当時から存在しました。原告も、争点のピントがずれていると述べています(原告(=生徒の父)著「丸刈り裁判の原告として考えたこと」月刊生徒指導1986年2月号6頁 学事出版)(判決文における原告の主張を見ると、「女子生徒に認められた長さの10分の1程度の長さしか認めていない」こと

   を不平等だと主張していても、女子生徒に丸刈り校則を実施していないことを不平等だとは主張していません。)。

   そして、このような考えを応援するかのように、ようやく、平成11年6月23日に、この憲法第14条を具体化する法律として男女共同参画社会基本法が施行され、男も女も「男らしさ」「女らしさ」に縛られず「自分らしく」生きるということが社会的に認められるようになりました。

   この法律によれば、男女共同参画社会では、男女が均等に社会的及び文化的利益を享受できることになっています。そして、その男女共同参画社会の形成にあたっては、社会における制度又は慣行が、男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできるだけ中立なものとするよう配慮されなければならないことになっています。

   熊本県の条例でもこの趣旨は同じで「男女共同参画社会の形成は、男女の個人としての尊厳が重んぜられること、男女が性別による差別的取扱い(明確な差別的意図がなくとも、差別を容認したと認められる取扱いを含む。)を受けないこと、男女が個人として能力を発揮する機会が確保されることその他の男女の人権が尊重されることを旨として、行われなければならない。」「男女共同参画社会の形成にあたっては、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない。」(条例第3条、第4条)と定められています。

   よって、今日に至っては、もはや、丸刈り校則が男女平等を定めた憲法第14条に反しないとは言えなくなりました。

   次に2つめについて。セクシャルハラスメントとは、性的な嫌がらせの他「相手の意に反した性的な言動によって、仕事(学校の場合、学習)をするうえで、不利益を与えたり、就業環境(同、学習環境)を悪くする行為」というものも含まれ、「性的な言動」とは、「性別により役割を分担すべきとする意識に基づく言動」も含むものとされています。(注:男女雇用機会均等法第21条の定義に掲げられた雇用主の配慮義務の対象は女性ですが、男性が被害者であっても加害者に不法行為責任を免れるものではありません。文部科学省の「セクシュアル・ハラスメント防止等のために文部省職員が認識すべき事項についての指針」は、被害者を女性に限定していません。)

   この観点から丸刈り校則を検証しますと、まず、丸刈り校則は、固定的な男性観(役割)を押し付けるものである点が問題になります。さらに、これまで丸刈りをしていなかった男子生徒にとって、異性の前で丸刈り頭をさらすことは、人によっては、その過程で羞恥心を感じさせるものであり、この点も問題になります。

   つまり、日常的に丸刈りの習慣の無い男児に男性であることを理由にこれを強いるのは、女性に女性であることを理由にミニスカートを穿かせるのと同じようなものなのです。服装や髪型は、社会的に特異なものでなくても、その個人の習慣として特異であることがあるのです。

   よって、丸刈り校則は、セクシャルハラスメントだとも言える余地が十分にあるのです。

   以上の2つの点からも、この判決におけるこの判断が、もはや通じなくなっているのは明らかです。

   ちなみに、この判決が出た当時は、技術家庭も男女別々に履修していましたし、高校では女子生徒のみ家庭科の履修が義務付けられていました。文部省そのものが、現代の男女平等観では明らかに男女差別といえることをしていた時代でした。

   (参考)  

   なお、男女共同参画から、さらに進んで、ここ数年、男女の社会的に作られた性差を見直そうという動きが出て、ジェンダーフリーという用語がしきりに唱えられるようになりました。そして、平成14年の夏頃までは、各自治体も、男女共同参画社会の実現に密接に結びつくものとして、積極的にジェンダーフリーの推進していました。もちろん学校教育の場も例外ではなく、この運動が続けば、丸刈り校則は当然に廃止される運命にありました。

   ところが、平成14年の秋頃から保守的な人々を中心に「ジェンダーフリーは、男らしさ、女らしさを否定する点で、個人の生活の自由や家庭の自治に干渉し、問題だ。」という意見(バッククラッシュ)が出てきました。そして、内閣府も「男女共同参画社会は、『男らしさ』『女らしさ』を否定しない」ということを各都道府県に事務連絡しました(内閣府男女共同参画局の平成15年1月27日付け事務連絡)。

   実際に保守的な勢力の強い鹿児島県や石川県の議会では、ジェンダーフリーを教育の場に持ち込ませない動きも起こっています。

   しかし、いくら「男らしさ」「女らしさ」を否定するものではないといっても、「男らしさ」「女らしさ」を押し付ければ、それは男女共同参画社会基本法の趣旨に反してしまいます。条例は、基本的には、法の枠を超えることはできません。

   この点は、先の内閣府の事務連絡にも記されているところで、そこには「(男女共同参画社会は)男女の逆転や中性化を描くことを求めるものではない、多様な生き方ができることが重要であり、男性であり女性であり1つの鋳型にはめることについて問題提起をしているのである。」と解説されています。さらに、内閣府男女共同参画局の著した文献においては「女性従業員のみへの制服着用など、様々な慣行の中でも、性別による偏りにつながるおそれがあるものは、国民一人一人が見直していくことが望ましい。」と記載されています(『わかりやすい男女共同参画社会基本法』17頁 有斐閣 200112月)。

   こういったことから、たとえ、ジェンダーフリーの考えが否定されても、やはり、丸刈り校則は男女差別です。

   ちなみに、ジェンダーフリーについては、論者によって、「すべての社会的性差を否定する」ラディカルなものから、「男らしさ、女らしさを押し付けず自分らしく生きることを認める」という意味で使用するリベラルなものまで色々あります。

   私は、前者はともかく、後者は内閣府の事務連絡以降においても否定されてはいないと思います。つまり、後者のリベラルなジェンダーフリーなら、「自分らしさ」を追求した結果が、これまでの「男らしい生き方」であったり「女らしい生き方」であることもあり得るからです。

  

  (私見)… 丸刈り校則は髪型による人間差別である

   髪の毛は、服装などと異なり、人の一部をなすものです。よって、この裁判の争点には無い視点ですが、そもそも丸刈り校則によって、長髪の「人間」を差別すること自体が、憲法第14条に反していると思います。

   もちろん、差別も、合理的な理由があれば許される場合があります。

   ところが、この判決においても言われたように、合理的理由がありません。

   判決は、「しつけ」であることと、教育者が教育目的をもって校則を決めたのなら、一般人にその合理性がわからなくても、そこには教育者の専門的見解があるものと推定して、著しく不合理でない限り違法としないという立場をとりました。(「<1>−3」)

   しかし、「しつけ」については、後述「<5>−6−イ」のとおり、今日では児童虐待防止法により合理性を要求されますし、教育者の専門的見解についても、一般人に合理性がわからないようでは、そもそも、生徒に合理性が伝わるはずがなく、合理性が伝わらないのなら、そこには物理的に教育が成立していないということになります。

   それゆえ、丸刈り校則は、「髪型による人間差別」だと思います。

  

 4 <1>−3−(2) 憲法第31条(法定手続の保障)違反かどうか?

  ア 事前の手続について

   この分野については、判決の根拠となった法解釈の基準には変化は見られませんが、その後、国民の行政に対する意識そのものが変化したため、憲法の別の条文等に抵触する可能性が出てきました。

   まずは、判決に沿って憲法第31条違反かどうかということだけを取り上げます。

   通説では、この条文は「法律の定める手続」を「単に法律によって形式な手続を定めればよい」というむのではなく、「適正な法律により、実体的な手続を定めることを要求している」としています。また、「その生命若しくは自由」については、例示であって、財産権についても、憲法第291項(財産権の公共の福祉による制限)を優先させたうえでなら含まれるとしています。

   よって、ここまでの部分は、丸刈り校則について、この条文による保障から除外される理由は見当たりません。

   問題は、権利を侵害するにあたっての手段のところです。この条文では、「その他刑罰」とあります。そこで、憲法第31条の規定は、刑事処分以外の行政上の処分手続にも適用されるかとどうかが問題になってくるのです。

   この点について、判決後の平成471日に出された成田新法事件最高裁判決においては、「準用」を認めたものの「適用」を否定し、「制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきもの」という判断を示しました。

   つまり、丸刈り校則は刑罰ではないので、この条文について「適用」されない、せいぜい「準用」されるのが関の山だというのです。

   そのうえ、その後、平成8222日付け小野市丸刈り校則事件最高裁判決が出され、多くの学校における校則には、法的効果がないと考えられるようになりました。これは、校則が、行政処分ではなく行政指導であると確認したことを意味します。校則が行政処分でないとすれば、この条文については、「準用」すらされないということになります。

   結局、これだけを見ると、丸刈り校則は、本条適用の枠外であるとした玉東中学事件判決は、正しかったという結論に落ち着きそうです。

   ところが、現代に至って、本条とは別の側面から問題提起がなされるようになりました。

   それは、国民主権の原理から導き出されるもので、「行政の説明責任」という概念です。

   そもそも本条の実質的な内容は、告知と聴聞の権利であり、「不利益を科す場合には、当事者にあらかじめ内容を告知し、当事者に弁解と防御の機会を与えなければならない。」というものであるとされています(昭和371128日付け最高裁判決、第三者所有物没収事件)。しかし、ほとんどの行政の活動は、行政処分に限らず、国民の生活に無何らかの影響を与えます。とこで、近年、この「あらかじめ内容を告知する」という手続保障が、憲法第31条にあるような罪刑法定主義の視点とは別に、行政が本来国民に負っている当然の責任という視点から主張されるようになってきたのです。

   これによりますと。主権者である国民(→未成年者も参政権が無いだけで主権者であることに変わりは無い!)は、あらゆる行政行為について、十分な説明を受ける権利を「当然に」有します。

   ところが、現在の丸刈り校則は、まだ生徒と教育者がほとんど触れ合うこともない入学前の段階において、「校則だから」とその履行を迫ります。教育者は、十分な説明も生徒が納得しているかどうかの確認もせずに、丸刈り校則を実行しているのです。これは、医師が一度も患者を診察せずに「人間ならみんな同じだ」と投薬するようなものです。つきつめれば、教育そのものの瑕疵(手抜き)であり、憲法第31条では無理でも、憲法第26条(教育を受ける権利)から、その侵害例として問題になり得ると思います。

   なお、平成6年5月16日に発効した児童の権利条約第12条においては、「児童は、自己に影響を及ぼすあらゆる行政手続(→行政処分に限らない)において、国内法の手続規則に合致する方法により意見聴取の機会が与えられる」とされているにもかかわらず、わが国では、その手続はいまだに定めていません。

  

  イ 事後の手続について

   憲法第31条は、一般的に事前の手続について定めたもので、事後の権利保障手続については、憲法上の権利の種別ごとに各条文が対応しているところですが、上記の児童の権利条約第12条は、事前の手続のみならず、事後の手続を含んでいますので、それについても検証しておきたいと思います。

   まず、行政処分(→権利義務が確定されてしまう行政の一方的な行為、国民は、これによって、服従すべき具体的立場に置かれる)については、昭和37101日に施行された行政不服審査法に基づき、不服申立てが出来ますが、同法第4条で、学校において生徒に対して行われる処分は適用を除外とされています。よって、丸刈り校則が、学則等に定められ、行政処分として実施された場合であっても同法に基づく不服申立てはできません。ただし、他の法律による審査請求等は可能とされており、丸刈り校則については、「学校という『公の施設』の使用条件に対する不当な性別による差別」だともいうこともできるので、地方自治法第244条の4に基づく不服

   申立てなら可能性があります。

   しかし、多くの学校の丸刈り校則は、特段、学則において定められているわけではありません。最高裁は、単に「生徒心得」で定められている程度のものでは行政処分にあたらないとしました(前掲、平成8年2月22日付け  小野市丸刈り校則判決。ただし、文部は、部分社会の規則として法的効果があると主張しています(文部省教職研究会『教務ハンドブック』299頁昭和60425日)。)。丸刈り校則は、行政指導だというのです。 

   そこで、次に、行政指導等に対する適正手続を保障する法律としての行政手続法はどうかということになりますが、平成6101日から施行されている同法においても、第3条で、中学校の校則や生徒指導は適用を除外されています。その理由は「義務教育については、国民としての最低限の教育を施すために本人の意思にかかわらず教育を受けさせている」からだというのが立法段階での政府の説明です。(ただし、地方自治体の行政行為には、同法は直接適用されないので、条例において独自に適用対象に含めることは可能です。しかし、私の知る限り、適用対象とした例は見当たりません。)

   丸刈り校則は、どう見ても「最低限の教育内容」に含まれるとは思えず、法律制定の前提となった事実に誤認があるように思います。

   以上を見る限り、結局、現在のところ、このような法律構造のもとでは、丸刈り校則に対する手続保障といえば、国家賠償法に基づいて事後的に賠償を求める形でその違法性を争う手段しかありません。事前に丸刈り校則の適用にあたって、意見を聴取される機会もなければ、その取り消しを求めたり、無効を確認したりすることもできないのが実態です。  

   このような中、児童の権利条約の第1回政府報告に対する国連審査の最終見解においては、児童の権利の実施を監視するための権限を持つ独立した監視機関を設置するよう政府に求めています。 

 

   そこで、ア及びイより、丸刈り校則は、憲法第31条に違反しなくても、児童の権利条約上の手続保障規定には抵触し、やはり、玉東判決におけるコの部分の判断ももはや通じないというのが、私の見解です。

  

  ウ 少年院とのアンバランス

   最後に、この問題について、少年院の場合とのアンバランスを紹介しておきたいと思います。ちなみに少年院も法的には学校と同じ「教育を目的とする施設」です。

   まず、少年院の場合は、頭髪についてしっかりと法令に定めがあります。少年院処遇規則第45条第2項には「在院者の頭髪は、衛生上必要があると認めるときは、短く刈ることができる。」と定められており、短髪の強制を衛生上の必要があると認められる場合に限っているうえ、運用上も「丸刈りは、一般に強制してはならない」(法務省矯正研究所「少年院法」182頁/前掲桑山昌己論文44頁掲載のものから引用)とされています。なお、処遇規則は、少年院法第15条の委任を受けて定められているものです。

   さらに、施設長が行った処分は、行政処分ですから、裁判所に取り消しを求めることも可能です。(実際に、短髪措置を差し止めるには、裁判省から処分の執行停止の決定が必要。)(日本国政府『児童の権利に関する条約 第1回報告』 39頁 平成85月)

   以上を見れば、頭髪に関する限り、手続的にも実体的にも、少年院の方が、丸刈り校則校よりも優遇されているように見えます。そして、こういった点から、理屈のうえでは、丸刈り校則の中学校に在学する生徒が犯罪行為を犯した結果、丸刈りから解放されるということも起こりえることになります。中学校の丸刈り校則は、法的には強制ではないとしても、生徒に対して、学校は、絶対的強者の立場にあり、これを拒否する自由は生徒にとって絵に描いた餅にすぎないからです。(ただし、伸ばせてもせいぜい5cmの中髪刈りまでしか認められない刑務所と同様、実際の少年院は、ロングヘアーが認められるほどではないと聞いています。)

  

 5 <1>−3−(3) 憲法第21条(表現の自由)違反ではないか?
  判決は、表現の自由について、「髪形が思想等の表現であることは特殊な場合を除き、見ることはできず、

特に中学生において髪形が思想等の表現であると見られる場合は極めて希有(→=まれ)である」といって、実質的に制限が合憲かどうか判断せず、門前払いしました。これは、表現の自由における「表現」をたいへん狭義にとらえる学説に基づいています。

  ここにおける検証のポイントは3つです。1つめは、「髪型が思想等の表現であることを認められないということの真偽」、2つめは、「まれなことならば制限してもよいのか」ということ、3つめは「司法のいう表現の自由が社会通念からずれていないか」ということです。

  まず、1つめについて。ベトナム戦争で、徴兵されると髪を刈られることに反発して、若者がヒッピー長髪を反戦運動のシンボルとしたことは有名です。日本でも、学生運動が盛んだった時代に、アメリカの若者をまねた長髪がはやりました。また、表現の自由によって表現される対象は「芸術」も含まれます。こんにち、髪が自分の感性を表現する手段となっているのは明らかです。こういった点から。

  この判断には、当時から事実誤認があり、現在においては通じない判断だと思われます。

  次に2つめについて。憲法が「一切の表現の自由」を保障しているのは、表現の自由の伝達手段が多様化することも含めて保障しているからになりません。仮に中学生において「まれ」であっても、最初から表現が展開される場を無くしてしまうことには問題があります。 

  実際、この「表現の自由」の中身は、憲法制定以来不変ではなく、マスメディアの巨大化と寡占化に伴い、「話す・書く」の自由から「聞く・読む・視る自由」へ重点が移行し、そして、さらにインターネットの普及により、多様化が進行しつつあります。また、近年、芸能人の低年齢化、カメラ付き携帯電話を介したメール友達の広がり等の環境を考慮すれば、もう、中学生においても「まれ」と言い切るには無理があります。

  なお、児童の権利条約第13条にも表現の自由の項目があり、その自由には「手段の選択の自由」も認められることになっています。そもそも判決がいうように、「中学生にとって『まれ』だから制限しても差し支えない」のなら、権利として掲げること自体、意味が希薄になってしまいます。これでは、立法行為を裁判所が「まれ」だというだけで否定していることになります。

  (ちなみに、児童に対して、脱色・染髪を禁止するのは、表現の自由の上で問題になっても、安全上の観点から合理性が認められる場合があります(参考 20021031日付「川西市子どもの人権オンブズパーソン意見書」)。児童の権利条約においても、公衆の健康維持の場合は、表現の自由の制限を認めています(第13条)。)

  最後に3つめについて。裁判所がどうであれ、文部省(現在は文部科学省)は、髪型を表現の自由の問題としてとらえています(前掲『詳解生徒指導必携』352頁)。また、児童の権利条約に対する第1回政府報告(前掲)においても、校則に関する記述は、表現の自由のパラグラフに記載されています。表現の自由をこのように狭義にとらえるのは、司法の分野だけです。つまり、司法の判断の方が、社会通念から乖離しています。

  以上のように検証すると、髪型の自由は、表現の自由に含まれることには間違いありません。もちろん、これは自己表現の自由であると同時に自己決定の自由でもあるので、憲法第21条に掲げる表現の自由に含まれるからといって、憲法第13条(幸福追求権)にも含まれることを排除するものではありません。

  ただ、憲法第21条に含まれるということは、それが精神的自由にかかわるものだけに、合憲であるかどうかが判断されるにあたって、行政側に厳格な審査が行われることを意味します。そうなった時、丸刈り校則が合憲とされる余地はほとんどないものと思います。

 

 6 <1>−3−(4) 学校長の裁量(法律上認められた校長の判断で物事を処理できる範囲)の逸脱(はみだし)ではないか?

判決では、憲法違反でないことを確認した後、裁量の逸脱を検討しています。

   もし、一般行政が、何の権限もないのに、市民に丸刈りにするように干渉すれば、それは、たとえ、憲法のどこかの条文に違反しなくても、違法な行為となります。

   だから、教育を行なう者と受ける者といった関係の場合は、その例外が認められるかどうか?、これについて、判決は、判断する必要があったのです。それが、この部分であると考えられます。   

   以下、現代の価値観で、この部分における判断を1つずつ検証していきたいと思います。

 

  ア <1>−3−(4)−ア 中学校長は、教育の実現のため、生徒を規律する包括的権能を有する…というが?

    平成6年5月22日発効の児童の権利条約第28条第2項の規定により、その範囲は、人間の尊厳に適合する方法で、かつ、児童の権利条約運用されることに限られるようになりました。この第28条は、第29条で、学校の管理を制限するものではないとされていますが、その学校の管理は、児童の文化的同一性、人権、最大限の発達の保障等の制約のうえで認められるものとされており、先の「1〜3共通 その2」において述べたとおり、丸刈り校則は、もはや包括的権能の範囲外といえます。

 

  イ <1>−3−(4)−イ 教育は人格の完成をめざす(教育基本法)ものであるから、アには、生徒のしつけに関するものも含まれる…というが?

    判決においては、学校側が掲げた丸刈り校則の教育的効果はすべて否定されましたので、この「しつけ」だけが、校則制定の根拠として唯一認められた形になっています。

    しかし、今日において「しつけ」を根拠に持ち出すのは、2つの点から問題があります。

    1つめは、児童の権利条約第5条、第18条、第29条第1項⒞において承認されている「親の教育権」を侵害しているという問題です。基本的に髪型のような「しつけ」の決定権は個々の親にあり、学校が多数の親の意思を取りまとめたとしても、わが子を丸刈りにすることを希望しない親の意思を侵害することはできないはずです。

    2つめは、児童虐待防止法に反するのではないかという問題です。この法律の施行(平成121120日)により、児童が虐待され

   ている場合、上記に述べた親の権利ですら制限できるようになりました。この法律の第14条では、特に「しつけ」目的で行われても児童虐待が免責されないことを明示しています。そして、児童虐待に該当するかどうかは、「あくまで子ども視点、子どもの観点か

   ら判断されるべきである」というのが通説です。(厚生省児童家庭局監修『子ども虐待対応の手引き』21頁 ㈶日本児童福祉協会平成11331日)さらに、この児童虐待防止法は、その第3条において、親等以外の第三者に対しても、罰則規定はないものの児童虐待を禁止しています。しかも、この条文、「何人も、児童に対し、虐待をしてはならない。」における「虐待」とは、同法第2条に掲げた虐待の定義よりも、さらに広範囲であるというのが通説です。(太田誠一、田中甲、池坊保子、石井郁子、保坂展人著『児童虐待防止法の解説』 69頁 ぎょうせい 平成13315日)

    つまり、このようにとらえると、丸刈り校則に対して、児童が苦痛を感じる場合、これは当然に児童虐待になります。

    それに、たとえ、個々の子どもの側ではなくて、一般人の立場に立っても、これまで長髪で過ごしてきた場合において、十分な説

   得もなく、教育者が一方的に教育的効果の存在(それも、この判決の裁判官すら納得させることができなかった効果)を唱えて、「中学校入学までに髪を切って来い!」というのは、苦痛を感じることが予想できます。髪の毛は、一度切ってしまえば、標準服のように着替えることができないものです。毎年、多勢の男子生徒に、丸刈り校則を押し付ける時、その全員が苦痛を感じていないと学校側は言い切れないはずです。なお、諸外国では、このような児童虐待を「マルトリートメント」と呼んでいます。

    よって、丸刈り校則は、児童虐待防止法第3条違反であり、今日においては、「しつけ」目的を掲げてこれを正当化することはできません。

    なお、以上の1つめ、2つめとは別に、蛇足ですが、重要なことなので触れさせていただきますと、判決は、教育基本法の解釈について、大きな過ちを犯しています。確かに教育基本法の第1条から、教育の目的にしつけが含まれることまでは導き出せますが、この「しつけ」について立法当時の文部省側の解説によれば、丸刈り校則の類は否定されてしかるべきものとなるからです。

   (参考)文部省学校教育局編『新しい中学校の手引』154頁 明治図書 1949年2月(平原春好編『教育基本法制コンメンタール25』日本図書センター 2002年にて再版されたものより)

しつけは、生徒の個性をためて型にはめこむためにするものではない。生徒が社会的境遇に適応するように、その発達を指導する

   ものである。すべての人間を1つの型に押しこんで、さて、その型の中で技能や体力を発達させようとするのは、弾圧であってしつ

   けではない。…中略…生徒自らが自らをしつける能力をもっていることを考えないで、学校で作った規則を守ることを強いれば、生徒を唯(ただ)罰がおそろしいから規則を守るという人間にしてしまう。生徒は、こんな規則を破ることは悪いと考えない。生徒は、規則を破ったことが見つからないでくれればよいと考えるだけだ。このような態度になっては、その生徒指導からは何等よい結果を期待することはできないであろう。

 

  ウ <1>−3−(4)−オ 校則が教育を目的として定められた場合には、その内容が著しく不合理でない限り、違法とはならない

   …というが?
    この部分は、校則が司法によって違法と判断される限界について判示した部分です。 

    なお、この部分については、「<3>−2」及び当ホームページ「みなさんからよせられた意見」の20031112日付けの私(=匿名K)の意見投稿においてすでに解説したとおりです。

    結論だけを申し上げますと、判決が丸刈り校則が違法ではないと判断したからといって、教育者として、その社会的責任を免罪したわけではないのです。あくまで司法により処断する領域に至っていないと判断したにすぎないのです。(この司法判断への批判は、「<5>−3−(私見)」に先述。) 

 

  エ <1>−3−(4)−カ 丸刈り校則は、非行防止その他の教育目的で制定されたことが認められる、

    <1>−3−(4)−キ~ク しかし、丸刈り校則に、その教育目的どおりの効果があるとは、認められない。だから、丸刈り校則の合理性には疑いを差し挟む余地を否定できない…というが? カは、学校側の主張をそのまま受け入れただけのものです。しかし、キ~クにおいて、その中身は、ことごとく否定されました。

    「<3 判決のとらえ方>−2」において、京都府立医大退学処分事件を紹介して述べたように、本来、基礎となる事実が無くなれば、それは著しい不合理として認められるべきものです。

    特に、判決以降に定着した流れとして、行政機関が誤った説明・教示をしたために損害が生じた場合、それを国家賠償法に基づき償わなければならなくなったということが注目されます。

    これは、先述の「行政の説明責任」と同様、国民の主権者としての立場から当然に導き出されるもので、行政をサービスの提供機関、国民(住民)を、サービスの享受者と見た場合、住民は、私人間取引の消費者の立場と同等の権利を有するという考えに基づいています。教育も、つきつめれば給付行政(=行政サービス)であり、この理屈の例外でありません。

    そうしますと、判決で否定された教育的効果をいまだに掲げて「丸刈り校則」を実施した場合、教育過程において、親・生徒・地域に「でたらめ」を吹き込んだことになります。

    今や、行政側に何の義務のない「説明」サービスですら、それが誤っていたために損害を与えた場合、国家賠償法に基づく賠償が認められる時代ですから(参考:「都市計画説明損害賠償請求事件」平成12118日東京地裁判決 判例地方自治22199頁)、「教育的効果が無いものを有る」と「でたらめ」をいった場合、それだけで損害賠償責任に問われることになります。

    さらに、教育行政の場合、その内容の正しさだけでなく、生徒に対する安全配慮義務も求められます。

    判決当時には指摘されていなかった事柄として、近年注目されてきたのが「紫外線の害」です。実際に、保育園などでは、以前は、「裸ん坊保育」などといって、抵抗力を養うため幼児を上半身裸で保育することが行われてきましたが、最近は、すっかり行われなくなってきました。自らの自由な意思で丸刈り頭を選択するのならともかく、紫外線から頭皮・頭部を保護する役割を持つ頭髪の使用を実質的に認めないこの校則は、安全配慮義務にも反したものといえます。ちなみに、毛根に紫外線を直接浴びると、毛根に多量の活性酸素(有毒物質)が発生して、脱毛を引き起こすという説も存在しています。

  

  オ <1>−3−(4)−ケ〜コ しかし、丸刈りは、郡部において広く行われ、特異な髪形でない、校則が無い時から慣行として行われていた…というが?

    判決当時は、日本の3分の1以上の中学校に丸刈り校則があったと思われます。

    「毎日新聞 1993916日付け朝刊」では、鹿児島県は99%をトップに、全国で約2470校に丸刈り校則があると掲載されています。しかし、同年93日に、非自民党政権:細川内閣の赤松文部大臣が、丸刈り校則に否定的な発言をしたため、同年12月には、このうち1割が丸刈り校則を撤廃しました。(毎日新聞 19961229日付け朝刊)ところが、九州においては、翌年に至っても、つぎのような状況でした。

    福岡…10%、大分…21%、長崎…44%、佐賀…59%、熊本…70%、宮崎…79%、鹿児島…91%。(福岡県弁護士会の調査を、1994812日に、毎日新聞福岡支局が掲載したもの。)

    しかし、現在はどうでしょうか。読売新聞の平成1582日付けの記事によりますと、「九州、沖縄、山口の各県教委によると、校則で丸刈りを定めている公立中学校は、鹿児島で273校のうち85校(31%)、熊本が193校のうち39校。長崎は196校の1割程度で、福岡、佐賀、沖縄は、いずれも1校だけ。宮崎、大分、山口では1校もないというのが実体です。(注:熊本のデータは、あけみさんのサイトの方が正確で、それによれば、最新のもので37校です。)

    それゆえ、もう、丸刈りが広く行われているという、この判断の基礎となった事実は崩壊しています。

    また、現在、小学生の多くは長髪です。小学生の多くが、もともと慣行として丸刈り頭だった時ならともかく、そうでない状態では、慣行というのも間違いです。小学生が長髪である限り、彼らの慣行は長髪だからです。

    もっとも「中学生になれば髪を丸刈りにするのが慣行だ」という反論もあるでしょう。しかし、これは、個人の尊厳、アイデンティティーを無視した話で、先に掲げた児童の権利条約に違反します。

    もちろん、教育は、生徒の誤った生活習慣に対する指導も含みますので、何もかもがアイデンティティーだとは言えません。しかし、それまで生徒がしていた長髪の慣行が、現代市民社会において「正すべき誤った生活習慣」だといえる余地はないはずです。

    この点、この判決も、丸刈りの効果には疑問を差し挟んでいます。

    よって、「校則が無い時から慣行として行われていた」ということも、もはや、言えなくなったと考えられます。

    ちなみに、私の感想ですが、当時から、丸刈りが広く行われていたのは、それらの学校にも、丸刈り校則や丸刈り指導があったか

   らで、無ければ、熊本市内と同様の状況になるわけで、なんら、学校の行為を正当化するものではないと思います。これは、悪いことをしていて、他の人もやっているから悪くないという論理にすぎません。丸刈り校則が無い時から慣行として行われていたというのも怪しい話です。いかにも生徒が自主的な丸刈りにすることを慣行として行っていたような言い方ですが、実際は、校則も無いのに丸刈り指導が慣行として行われていたからではないでしょうか。

    この熊本地裁における判決にしろ、最高裁における小野市丸刈り校則裁判の判決にしろ、事実と異なる状態を裁判所に認定させて勝訴をしても、それは、ほんとうの勝訴ではありません。実際、何の解決にもならず、かえって、丸刈り校則反対の市民運動が盛り上がりました。

    最後にもう1つ。この判決は、まるで中学生を「特殊な義務を負った身分」のようにとらえていますが、その後、児童の権利条約の批准によって、「子どもだからというだけで、権利の享受が制限されること」は違法になったことも付け加えておきます。

  

  カ <1>−3−(4)−サ 校則に従わない場合でも、強制的に髪を切ったり、内申書に記載したりという、学校外部に効果が及ぶ不利益処分はしない運用をしている…というがすでに「<3>−3」において説明しましたが、この判決における「合法限定解釈」の核心部分です。このような解釈は、憲法解釈において用いられることが多く、その場合は、合憲限定解釈と言い、ある法規について、いくつかの解釈の途があり、そのうちのある解釈をとれば、違法・違憲と判断されるが、別の解釈をとれば、合法・合憲と判断される時、後者の解釈をとる旨、宣言することで法規自体が否定されることを避ける手法です。

    ご存知のように、丸刈り校則に、いちいち、従わない場合でも不利益処分をしないなんて書いてありません。また、生徒にそのことが周知されていたかといえば、それも疑問です。それなのに、いざ、裁判の段階で、学校がこのような主張を展開したとすれば、たいへん卑怯です。

    ルールには、明確性が必要であり、今日においては、このことだけで、学校側の方が、説明責任を果たしていないといわれるものと思われます。

    とにかく、判決は、丸刈り校則をたいへん限定的に解釈して、適法としました。

    しかし、このことは、逆に、この判決以後の丸刈り校則は上記の運用基準に沿った場合のみが合法であり、この運用基準を離れた

   もの、すなわち、校則に従わない場合に不利益を与えるような場合は、違法になることを示唆する結果となりました。

    ところが、その後に行われている丸刈り校則が、この基準を満たしてるといえるでしょうか。決していうことはできないと思います。実際、平成14年には、宇土市鶴城中学校で長髪生徒が差別されたような事件が起こっているのは、当サイトで周知のとおりです。

    現在、行われている丸刈り校則は、この判決における判断基準をもってしても、違法です。


  キ <1>−3−(4)−シ 身体的欠陥がある者には、長髪を許可している…というが。
    この部分は、判決以後に進歩した、わが国の社会福祉の常識に、もはや耐えられない部分です。

    判決の後の1993年、政府は「障害者対策に対する新長期計画」を策定し、その中でバリアフリーの考えを取り入れました。バリアフリーとは、高齢者や障害者等にとって生活環境における障壁(バリア)を取り除くことを言います。そして、現代における通説では、@物理的な障壁(足の不自由な人にとっての歩道の段差など)、A制度的な障壁(障害等を理由に免許・資格が制限されている

   こと等)、B文化・情報面での障壁(耳の不自由な人にとっての音声しか伝達手段がない状態など)、C意識上の障壁(差別的な取り扱いなど)の4つの側面があるといわれています。

    これまでも、丸刈り校則のある学校で、頭に傷が有ったり、耳の形に異常があったりすることを理由に、長髪を許可される者がいました。その一方で、頭に小さな傷があるものの、他の生徒の怨嗟が怖くて、丸刈りにした者もいました。しかし、もし、学校に丸刈り校則というものがなければ、これらの男子生徒たちは、別に特別な扱いを受ける必要もなかったし、特別に悩むこともなかったはずです。

    丸刈り校則は、こういった点から、明らかに、判決の言う「身体的欠陥のある者」に対して、スクリーニング効果をもたらすなどの作用があり、障壁(バリア)となっています。

    現在では、特別な配慮よりも、自然に学ぶことができる環境作りこそが、教育者としての責務です。わざわざ、丸刈り特別な配慮を要する生徒を、丸刈り校則は作り出しています。中には、「『身体的欠陥』がある子にも丸刈りをさせ、それを自然に受け入れる生徒集団づくりこそが、ほんとうのバリアフリーだ」などというような人がいるかもしれませんが、それは、その生徒自身の気持ちを無視した、とんでもない暴論です。実際に、他の生徒が、本心から自然に受け入れるとは限らないのですから。

    こういったことから、たとえ、身体的欠陥がある者に対して、長髪を許可しても、その発想自体が、もはや福祉に反する以上、このことが丸刈り校則を適法化する根拠にはなりません。(参照:「<5>―2―(参考2)の児童の権利条約第23条に関する部分」)(参考) 

    なお、ここで、丸刈り校則そのものが、福祉社会の実現に害となすことも指摘しておきたいと思います。   

    平成10年から、義務教育諸学校の教育職員免許状を取得するには介護体験が義務付けられました。これは、学校において、教育者が、福祉観をもって教育にあたることが重要視されだしたからです。そして、教育者にそれが必要とされるのは、児童・生徒に福祉観を養う必要があるからです。

    さて、その福祉観に欠かせないのが、一人ひとりの自立生活を支援する態度であり、それには、「基本的人権やプライバシーの尊重」などが欠かせないことは、文部科学省においても認めているところです(文部省『高等学校学習指導要領解説 福祉編』112000年 実教出版梶j。

    また、社会福祉の担い手と福祉社会への展望について、文部科学省は、「特に人間の尊厳についての理解に重点を置くとともに、社会福祉に関する学習の基本的な心構えを身に付けさせるよう留意すること」(前掲書 14頁)としています。

    そして、文部省初等中等局職業教育課教科調査官も編集にかかわっている『高等学校学習指導要領の展開 「福祉」編』(矢幅清司・細江容子編 25頁 2000年 明治図書)には、「人間の尊厳にふさわしい生活とは、その人間が有している特性を最大限に生かして、自己実現し、自立した生活を送ることである。」「この自立生活は個人の権利意識と深く結びつくものである。この権利意識は、子ども、老人、障害者など多様な他者がもつものであり、教育によって深く刻み込まれるものである。自己の権利を尊重するということは、他者の権利をも当然、尊重することであり、鋭い人権感覚をもつことが要求される。」と記載されています。

    丸刈り校則は、自然に伸びてくる頭髪の持っている、@身体保護、A幸福追求(自己満足感によるアイデンティティーの充足や精神的安定など)、B性的アピールといった機能について、その使い方を正しく教えるもの(例:皮膚が敏感な子どものうちは、髪を薬品で染めてはいけない等の指導)ではなくて、それを使うことそのものを禁止するものです。こういった点で、明らかに自己実現をそのものを制限する人権侵害です。そして、この人権侵害に対して開き直ることが、さらに非教育的な効果をもたらします。「総論では人権を尊重を表明しつつも、各論で自分の利害にかかわると、理屈をつけて、これは人権侵害ではないと否定する手法」を学ぶことになるからです。

  

  ク <1>−3−(4)−ス 職員会議で丸刈り校則の維持が確認されている…というが

    職員会議が、学校の最高議決機関ではなく、校長の学校運営の補助機関であることは、文部科学省自身がいっていることです。

    法的にも、職員会議の決定があるからといって、学校長の責任を免責することはできません。

    もちろん、教育活動については、教職員全体による十分な意見交換、討議が必要不可欠であり、そのための機関として、職員会議が重要な役割を果たしていることは否定できません。(参考:「大阪市立鯰江中学校日の丸裁判控訴審判決」大阪高裁 平成10120日判決 平成8年(ネ)第1143号)

    しかし、やはり、だからといって、職員会議の決定があれば、違法なものが合法に変わることはあり得ないのです。

    その点で、この判決は間違っています。

 

  ケ <1>−3−(4)−セ 原告に対して直接の指導すら行われていない…というが。
    当時は、「環境」についての不法行為性が一般的に認められる時代ではありませんでした。 

    しかし、その後、先に掲げたセクシャルハラスメントのように、「仕事をしにくい環境」が不法行為と認められるようになりました。学校や教育委員会は、子どもが平穏に学習できる環境を準備する義務があります。このことは、全国各地の「いじめ」に対する裁判例でも明らかですし、学校教育法においても、「本人に対する懲戒からではなく、学校秩序を維持し、他の児童生徒の義務教育を受ける権利を保障するという観点」から出席停止という制度を設けています。(学校教育法第26条、昭和58125日付け 文部省初等中等教育局長通知 「公立の小学校及び中学校における出席停止等の措置について」)

    繰り返しますが、学則かそれに委任された規定にない以上、丸刈り校則は、強制的なものではなく、従うかどうかは任意の「指導」です。指導に対しては従わないという選択肢も当然にあるわけです。そして、学校は、その場合でも、児童生徒に平穏な学習環境を保障する義務を免責されはしないのです。むしろ平穏な学習環境を保障してこそ「指導であって強制ではない」といえるはずです。

    よって、直接の指導がなくても、長髪でも平穏に学習する環境が準備されない限り、不法行為を形成する余地が十分にあるのです。

    それどころか、視点を変えれば、他人に髪を切らせるような指導は、強制すれば強要罪(刑法第223条)や公務員職権濫用罪(刑法第193条)にもなりますし、無理に切れば暴行罪(刑法第208条)にもなります。これほどの内容であれば、本来、個々の生徒に個別に面接して、丸刈りの有益性を説き、納得を得て切ってもらうという手続が必要なはずです。指導もせずに、校則を提示して切らせる運用そのものが、現代では、説明義務違反及び教育内容の瑕疵となり、丸刈り校則の違法性を高める結果となるはずです。

   (備考)

    なお、こんなことをいうと、「授業中に騒ぐ生徒に対して、靜かにするようにいうのも、指導であって、生徒自身に拒否の自由があるのか!」という反論が出そうですが、授業中に騒ぐことは、他の生徒の学習権を妨害する不法行為であり、生徒は騒がない義務を法的に負っています。そして、学校も、それを禁止する義務を法的に負っています。

    そもそも、学校運営に必要なたいていのルールは、校則によらなくても、一般的な法律関係において許されないものがほとんどです。私は、直接、法律を持ち出して指導した方が、生徒の市民道徳の涵養にずっと有益だと思います。

    ちなみに、文部科学省側の見解では、学校は、問題行動を起こした生徒について別室において隔離授業を行うことが可能です。

    しかし、丸刈り校則にこれを適用するのは違法だと思います。なぜなら、隔離授業するにあたっての「問題行動」とは、校内暴力などによって他の生徒の学習権を妨害したり、放置すれば生徒本人の健康や安全を害するなど、他の生徒に対して差別的な取り扱いをすることが、市民社会の社会通念に照らしても妥当する問題行動であることが必要だからです。丸刈り校則違反は、それに違反しても、市民社会のうえでは、何ら具体的な「問題」は発生しません。従って、丸刈り校則に従わないことを理由に隔離授業を行えば、地方自治法第244条第3項(公共施設の利用にあたっての不当な差別を禁止した条項)に違反すると思います。

 
  コ <1>−3−(4)−タ 校則が違法でないから、校則を制定することもこれに従うよう指導することも

違法ではない…というが

    以上により、現代においては、丸刈り校則は、その合法性の根拠のほとんどを喪失し、違法であるといえるでしょう。違法な校則は、これを守るように指導することも違法です。

    ちなみに、その後、神戸地裁の平成6年427日付け判決(平成5年(行ウ)第27号及び平成6年(行ウ)第7号)、大阪高裁の平成6年1129日判決(平成6年(行コ)第40号及び平成6年(行ケ)第2号)が出ましたが、これにおいて、裁判所は、学校は、一般社会とは異なる部分社会であり、そのような部分社会においては、司法の判断は及ばないという理論を採用し、丸刈り校則に対する判断を回避しました。   

    現在の文部科学省も、中学校の校則について、「部分社会のルールは、司法救済の対象外であるうえ、部分社会においては憲法上の基本的人権を制限することも可能である。」と主張しています。

    しかし、この部分社会論は、上告審の最高裁判所(平成8年2月22日付け判決 平成7年(行ツ)50号)では採用されず、「丸刈り校則があるからといって、生徒に法的義務が生じるわけではない」という判決となったことは、これまでにも紹介したとおりです。

    公立中学生は、自らの意思にかかわらず、何等自らの責任に基づかず、その立場におかれるわけで、高校生のように退学によって「一般社会」に戻ることができません。もし、彼らを、部分社会の法理であろうと何であろうと、司法救済の枠外に置くとすれば、国民は、義務教育過程においては、一般的に憲法その他法律に定められた基本的人権の保障の枠外に置かれることになってしまいます。自分の責任で就いた立場でないものに、何の補償もなく、特別な負担が課せられるというのは、奴隷や身分差別と同じであって、民主主義とは相容れないものです。その後、最高裁判所においても、強制加入団体においては、部分社会の法理の適用を否定しています。(南九州税理士会政治献金徴収拒否訴訟上告審判決 平成8年3月19日(平成4年(オ)1796号)  

 <あとがき>

  あけみさんの弁護士会への人権侵害申し立てを知り、担当弁護士さんの参考になればと思って、この判決批判を書き始めました。そのため、資料の引用にあたっては、できるだけ官公庁サイドのものを利用しました。「丸刈りの歴史」の現代編も兼ねることができるように書いている途中で、法律以外の他の分野にも立ち入ってしまいましたので、完成が遅れるとともに、とても長いものになりました。最後まで読んでくださった方にお礼を申し上げます

  一応、私もチェックしましたが、何箇所か、同じことを繰り返さざるをえないところもありました。この他、誤字脱字があるかもしれません。論文ではなく、意見投稿ですので、どうか容赦ください。

  もうすぐ4月。それまでに、立派な人権救済措置が出て、丸刈り校則がなくなるといいですね。

                                        2004年2月10日 匿名K

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